「 月輪物語 」

 

月輪観 

      密教で行う観法で、心を月輪のごとく清浄・完全であると観ずるもの。

 

 伝承では、都がまだ飛鳥藤原京にあった時代、平城京より昔の大宝4年(704) 越前の修験道僧、のちに泰澄 (たいちょう)上人と称す雲遍が、役小角(えんのおづぬ、役行者)をともない、愛宕山を登り清滝まで来ました。

その時、突然の豪雨。大杉の上に、天竺、唐、日本の天狗の統領たちが現れ二人を救ったと伝えられます。その大杉を「清滝四所明神」と称し、朝命で朝日峰(今の愛宕神社の地)に神廟を営みました。

 この様に、愛宕山麓一帯を修験道の聖地として開山されたのが、「月輪寺」の縁起とされます。  

役小角は修験道の開祖。 泰澄(雲遍)は、越前に生まれ、地元の越智山で「十一面観音」を念じて修行。愛宕山に来る以前の大宝2年(702年)文武天皇から鎮護国家の法師に任じられていました。その後は、越前に戻り霊場白山を開き、各地にて仏教の布教活動を行いました。

 日本古来の神道と、飛鳥時代に伝わった仏教を融合した「 神仏習合 」は、役小角が始め、泰澄の「 白山信仰 」で確立しました。

その起源に「月輪寺」は歴史を始めます。 天応元年(781年) 光仁天皇の勅により、慶俊僧都が和気清麻呂と愛宕山を中興、唐の五台山に倣って、5箇所の峰に寺を置きました。大鷲峰の月輪寺、朝日峰の白雲寺、高雄山の高雄山寺(今の神護寺)、龍上山(たつかみやま)の日輪寺、賀魔蔵山の伝法寺。この内、「月輪寺」と「神護寺」だけが現存しています。

 以上の歴史から、「月輪寺」では泰澄を開基、慶俊を中興としています。国家鎮護の霊場です。この時、地中から得た銅鏡の銘に「人天満月輪」とあったため、寺号に冠しました。平安時代には、空也上人が来山、修行・念仏を悟った遺跡となり、その際、上人が龍神から授かった、と伝わる霊水「龍奇水」が今でも湧き出ています。現在、寺の貴重な生活水、また愛宕詣や登山者のお助け水として使われています。法然上人もこの寺で念仏を専修されました。清少納言はこの地にて、隠棲なされ、この地にて、眠られております。

  

 鎌倉時代、建仁2(1202) 法然に深く帰依した九条(藤原)兼実(かねざね:藤原忠通の三男で九条家の祖)が出家して円澄と名乗り、この寺で隠棲しました。九条兼実は源頼朝の推挙で摂政太政大臣となりますが、政争で失脚し出家されたのです。そのため「月輪寺」は「鎌倉山」と号し、のちの世まで清和源氏から信仰をあつめました。また、九条兼実は「月輪殿」と呼ばれ、東山や一乗寺に地名として残るのもこの由来からです。

 建永2(1207) 後鳥羽上皇により、法然を讃岐へ、親鸞も越後へ流罪となりました。二人は出発に際し「月輪寺」に円澄を訪ねて別れを惜しんだといいます。この時、形見として法然、親鸞そして円澄のそれぞれが自身の像を刻んで形身とされました。

それら木造三身は「三祖師像」と呼び、「月輪寺」の寺宝となっています。 

 親鸞は別れを惜しんで桜を植え、現在その桜は「時雨桜」と呼ばれ境内に残ります。

また、清和天皇が晩年に過ごし御陵があることから、愛宕山麓一帯は武士子孫である清和源氏からも崇められました。 その関係から、月輪寺にも権現堂として勧請されていた愛宕権現は、その後も戦国時代にかけ、勝軍地蔵が垂迹した軍神として武士から信仰を集め、江戸時代末期まで愛宕権現社 (現 愛宕神社)とともに隆盛しました。 本能寺に向かう明智光秀が、月輪寺に立ち寄り、戦勝を願っておみくじを引いたと伝えられます。

慶応4年(1868年) 時代は明治、神仏分離令廃仏毀釈で、修験道に基づく愛宕権現は廃されましたが、 真宗発祥、しぐれ桜、浄土宗歌「月影のご詠歌」の地として、1200年以上の歴史をこれからも受け継いでいかれます。


京都愛宕山中腹にある山号は鎌倉山 月輪寺[つきのわでら]法然上人二十五霊場 第十八番札所 •天台宗•明智光秀公おみくじ•浄土宗宗歌月影の御詠歌の寺•真宗発祥の時雨の桜•空也上人悟りを開かれし霊地•秦氏が守りし霊山•清和天皇が眠りし清和源氏の聖地•出雲と大和の境界線の地•白洲正子が愛した寺•清少納言の墓所•月輪観発祥地